捕鯨外交は全人類的な視野で

                                   金子熊夫 東海大学教授(国際政治学)

「環境の世紀」と称される21世紀は、地球環境や食糧、資源問題が人類の最重要課題になると予想されている。

中でも、50年後に90億に達する地球人口の食糧をいかに確保するかは、まさに今世紀最大の難問である。飽食とグルメに明け暮れる日本人にとっても他人事ではない。その観点から、最近話題になっている捕鯨問題を考えてみたい。

昨年後半の、日本の調査捕鯨枠拡大を巡る日米対立は、年末にクリントン前大統領が追加的な対日制裁措置の見送りを決定したため、一時的に沈静化している。しかし、ブッシュ新政権下でも米国の政策の大きな変更は期待薄で、いずれ再燃は避けられまい。

ところで、この問題に関して国内では、「鯨肉を食べるのはわが国の伝統的な食文化だ、もしそれが野蛮というなら、牛肉を食べるのも同罪ではないか、だいたい鯨を神聖化する欧米流の価値観を一方的に押し付けるのは傲慢だ、断固戦うべし」といった捕鯨擁護論が盛んだが、これらはいずれも感情論の類で、的外れといわざるを得ない。問題の本質は別のところにある。

 そもそもクジラを地球環境保護のシンボルに祭り上げ、「商業捕鯨十年間停止」を最初に決議したのは、1972年にストックホルムで開かれた国連人間環境会議である。筆者は、たまたま当時外交官として同会議に深く係わった関係で、以来30年間この問題の動向をひそかに懸念してきた。個人的な感想を率直に言えば、捕鯨は、少なくとも現在のような形で続ける限り、日本の国際的なイメージダウンを齎すだけで、前途は極めて厳しいと思う。

 確かに、日本が1980年代後半から実施しいている「調査捕鯨」自体は、昨年11月8日付けの本欄で大隅清治日本鯨類研究所理事長が指摘したように、国際捕鯨取締条約で認められた権利であり、鯨資源の実態把握のために必要であるとの主張にはそれなりの正当性がある。

 にもかかわらず、日本の主張に対する国際的な支持が過去30年間拡大せず、日本は国際世論を無視して捕鯨を継続しているという非難が絶えないのはなぜか。米国等の強引かつ巧妙な多数派工作により国際捕鯨委員会(IWC)が反捕鯨派に牛耳られているためというのは事実だ。

 そうならば、この際、同委員会だけで論争を繰り返すのではなく、世界全体の漁業・食糧問題の一環という形で、国連食糧農業機関(FAO)、さらには国連総会の場に持ち出して本格的な討議を促すべきではないか。

もしこれまでの日本等による科学的調査研究の結果として、いくつかの鯨種については絶滅の恐れがないだけでなく確実に増加傾向にあり、しかも、いまやそれらの鯨が人類の全消費量の3〜6倍もの魚類を捕食していることが客観的な事実ならば、将来人類にとって必要な動物性蛋白源を確保するためには特定鯨種の数を「制御」つまり「間引き」する必要があるという日本政府の主張に理解を示す国は少なくないのではないか。

ただし、その場合でも、従来のような硬直した論理では、所詮日本のエゴイズムととられかねず、大多数の国の共感を得ることはできまい。現在日本が実施している「調査捕鯨」についてさえ、実質的には商業捕鯨だ、金儲けのためだという批判が根強い。

捕鯨問題の本質は、南極海や公海に生息する鯨は、牛豚などの陸上飼育動物や経済水域内の魚類と違って、特定国の占有物ではなく、ストックホルム会議で指摘されたように「人類の共有財産」とみるべきであって、各国が勝手にこれを利用することは許されないという点である。

故に、まずそのような基本認識に立脚し、鯨を含めた海洋生態系全体のバランスに十分配慮しつつ、全人類の食糧確保と福祉に資する目的のために必要最小限度内での捕鯨を認める、「調査捕鯨」も専らそのために行う、という基本原則を鮮明にすることが不可欠である。そのような新構想を国際社会に対し積極的に提示することこそ、世界有数の漁業国である日本に課せられた責務ではないか。

 

     (2001年1月23日付け朝日新聞朝刊「論壇」掲載)