「心臓マヒ」か「肝臓ガン」か?
金子熊夫
今回は、前回(6月21日)に続いて、日本の核武装問題、とくに原子炉級プルトニウムで核爆弾ができるかということ等を論ずる予定であったが、偶々6月25日付けの本欄で畏友・吉田康彦氏が私の所説に対する批判論文「原発推進はエネ安保のためか」を発表したので、その反論を簡単に書いておく。
実は、私が1年がかりで企画準備し、7月8日に経団連会館で開催された緊急国際会議「エネルギー安全保障と環境保全=原子力の役割」でも、同趣旨の問題提起があったので、その議論の一端を紹介しつつ、私見を明らかにする。
この国際会議は、私が関係する日本国際フォーラムという国際政治や外交問題専門の団体が主催したもので、日本の原子力の将来を国際戦略的な観点から再点検してみようというのが主目的であった。4月9日の本欄で発表した「日本は『油断』してはいないか?」でも指摘した通り、最近の日本国内における原子力論議は、技術的(安全性問題等)、経済的(コスト問題等)な側面に偏しており、エネルギーや原子力が本来有している国際政治面が疎かになっていて、このままでは重大な事態を招くのではないかという懸念が基礎になっている。
そもそも「安全保障」(security)という概念自体、「安全」(safety)と較べて分かりにくく、日本では一般になじみが薄い。一方は比較的身近で、肌で感じやすいが、他方は抽象的で、日常生活には直ちに響かないからである。しかも「安全保障」の中身は時代によっても大きく変わる。
私が最近発表したいくつかの論文で、「油断」という言葉を多用したためか、堺屋太一氏の同名小説からの連想で、1970年代の石油危機を想定し、同じような危機が再来するとか、いや再来しないという議論をする向きがあるが(吉田氏もその一人らしい)、私は、「油断」という言葉をごく普通の日本語の意味で使っているのであって、「油が断たれる」、すなわち、石油の供給がある日突然途絶するというような緊急事態だけを想定しているのではない。
私は、エネルギー危機には大きく分けて2種類あると考えている。分かりやすく病気に譬えれば、1つは心臓麻痺的なもので、それがまさに30年前の石油危機であった。もう1つは肝臓ガンのようなもので、知らないうちにじわじわ進行して気が付いたときは手遅れというような種類の危機である。
私は、前者のケースも、再発の確率は低いものの(その理由は、概ね吉田氏の指摘の通り)、全く起こりえないとは考えていない。中東地域以外でも、日本向けタンカールート上には、インド洋、マラッカ海峡、南・東シナ海など多くの“チョークポイント”が横たわっており、決して油断できる状況ではない。そうした事態に対する備えも怠るべきではない。
確かに石油依存度(1次エネルギー)は30年前の77%から52%に低下したが、実際の消費量(輸入量)は最近20年間、450万バレル(日)前後で横這いで、石油が日本にとって最も重要なエネルギー源であることに変わりはない。石油備蓄が国家・民間合わせて160日分ある(政府保有分だけで160日分というのは間違い)から心配無用かどうかは一概には判断できない。
これに対して、肝臓ガン型のエネルギー危機の確率は非常に高いと私はみている。最大の原因は、アジア諸国の石油需要の急激な伸びだ。細かな予測数字は省略するが、中国1国だけで中東石油を独占してもまだ足りない日が将来必ずやってくる。中東やカスピ海、さらには南シナ海の石油や天然ガスを巡って熾烈な争奪戦が起こる可能性が高い。
その結果石油価格が暴騰しても日本のような金持ち国は何とか切り抜けられるかもしれないが、開発途上国はどうなるのか。アジアで経済パニックが起きたらどうするか。30年前は我々は自分のことを心配するだけでよかったが、経済的相互依存度が飛躍的に高まった今日は、それでは到底済まないであろう。
そうした事態を未然に回避するためにも原子力は引き続き必要不可欠と考えるのは我田引水の論だろうか。
(電気新聞・時評「ウェーブ」 2002年7月23日 掲載)