「平和のための原子力」50周年

                                 金子 熊夫

今年は、アイゼンハワー米大統領が1953年12月8日、国連総会で歴史的な「平和のための原子力」(Atoms for Peace)演説を行ってからちょうど50年目である。世界各地で記念の国際会議等が企画されているが、その皮切りに、4月上旬、サンフランシスコ近郊のリバーモアで、「50年後の『平和のための原子力』:挑戦と機会」(Atoms for Peace After 50 Years: Challenges and Opportunities)と題する国際会議が開催された。

主催は、核兵器、とりわけ水爆研究で有名なローレンス・リバーモア国立研究所で、全米各地から核・原子力問題の専門家や研究者が多数集まった。中には、第二次大戦末期のマンハッタン計画(広島、長崎に投下された原爆の製造計画)の生き残りのような高齢の学者の顔も見えた。ヨーロッパやアジアからも若干名の専門家が参加したが、日本からは、イラク戦争やSARS騒ぎのせいで参加を取り止めた人もいて、結局筆者一人だけだった。

アイゼンハワー演説は、日本では専ら原子力平和利用を提唱したものとして記憶されているが、実際には、平和利用問題は演説の最後の部分に出てくるだけで、軍事利用(核管理)問題が中心命題であった。

すなわち、1945年7月ニューメキシコ州のアラモゴールドで最初の核実験に成功したとき米国は、この人類史上かつてない巨大なエネルギー技術を軍事機密として、その完全独占を意図したが、僅か4年後の1949年にソ連も核実験に成功した。

当時米ソ両国は、誕生したばかりの国連を舞台にして、核(原子力)の国際管理方法を巡って鋭く対立、交渉は暗礁に乗り上げていた。そこで、米国は、政策を一転し、原子力平和利用、つまり原子力発電の分野でも世界の主導権をとるため、新しい国際制度の創設を唱え始めた。

米国が最初に考えたのは「国際原子力開発公社」構想で、機微な技術やウラン燃料等はすべて公社のみが所有するとしていた。しかるに、この構想がソ連の反対で不発に終わると、代案として、「国際原子力機関」(IAEA) 構想をまとめ、それを1953年のアイゼンハワー演説で打ち上げたのだ。

当初の構想では、核物質等を一旦すべて国際機関にプールし、それを希望国に貸与する方式を想定していたが、1957年に創設されたIAEA制度では、妥協の結果、核物質や原子炉は生産国(製造国)から直接輸入国に移転され、IAEAは、当該核物質が軍事転用されることを防止する機能、いわゆる「保障措置」だけを受け持つことになったのである。

 今にして思えば、この時点で、核の軍事転用=核拡散が比較的起こりやすいシステムの導入が決定してしまったわけだ。勿論、その後1968年の核不拡散条約(NPT)の成立によりIAEA保障措置は格段に改善されはしたが、「パンドラの箱」から出てしまった核を完全に管理することは所詮不可能。インド、パキスタンは言うに及ばず、今日のイラクや北朝鮮問題がそのことを如実に示している。

 このような視点から、リバーモア会議でも、米国参加者の間では、「平和のための原子力」提案は結局失敗であったという暗黙の合意がみられた。

 しかし、原子力平和利用の“模範生”を自認する日本の立場からすれば、そういうわけには行かない。実は、リバーモア会議の第2回は5月末に日本(御殿場)で、第3回は7月にフランスで開催され、今度は平和利用問題が中心議題となるので、エネルギー資源小国(とくにアジアの)にとっての原子力の重要性を、自らの50年の実績と将来展望を踏まえて極力アピールするよう、周到な理論武装が望まれる。


        
        電気新聞 時評「ウェーブ」 2003年5月7
日掲載