非核国日本の原子力政策
金子 熊夫
アイゼンハワー大統領の歴史的な「アトムズ・フォー・ピース」演説(一九五三年十二月)から五〇年目の今年、内外で多数の原子力や核問題関連の国際会議が開催された。そのいくつかに筆者も出席したので、とくに印象に残ったことや重要と思われる点をアット・ランダムに記しておきたい。
まず第一に痛感したのは、今更言うまでもないことながら、原子力の軍事利用(核兵器)と平和利用(原子力発電)は本来同根であるということだ。一般的には、前者は安全保障問題、後者はエネルギー問題として別個に扱われているが、両者は常に表裏一体をなしていることを忘れてはならない。原爆発祥の地米国では、マンハッタン計画以来この相関関係を巡って、社会科学者と科学技術者との間でインタフェース的な議論が活発に繰り返されている。この点、明治以来文系と理系が截然と分かれ、学際的な議論が極端に乏しい日本とは大違いだが、日本が今後も原子力平和利用を円滑に続けるためには、もっと文系学者や専門家の力を借りる必要があり、そのような環境作りが急務であると思う。
第二に、これまた当然ながら、核兵器国は軍事利用と平和利用を峻別せず、両者を自在に調整しつつ同時並行的に進めている。従って、仮に経済的理由で原子力発電を止めても軍事利用で十分技術や人材の温存ができる。ここが日本と根本的に異なる点だ。昨今日本は、核燃料サイクル(再処理、プルトニウム利用、高速増殖炉開発等)の分野で世界的に「突出」しているとの批判が聞かれるが、それは一面的な見方だ。安全性、コスト、一般市民の核アレルギー等々、幾多の制約要因を克服して、核燃料サイクル計画を完成させることを国策とする以上は、歯を食いしばって自力で技術開発を続けなければならない。原子力は金がかかり過ぎるという批判もあるが、国防費を国民総生産の1%程度に抑えている日本が原子力を含め科学技術開発に金をつぎ込むのは当然の選択である。
第三に、他方、広く北東アジアに目を転ずると、例えば韓国は日本以上にエネルギー事情が厳しいのに、安全保障上の理由で再処理も濃縮も禁止されたままだ。彼の国の専門家達に言わせると、「日本は米国とうまく交渉をして、非核兵器国でありながら核兵器製造以外のすべての原子力活動を自由に行なっている。日本はいわば『準核兵器国』だ」ということになる。そうした羨望、嫉妬が対日不信を生む。日本核武装疑惑がとりわけ同国の識者の間に根強いのはそのためだが、そのことに気付いている日本人は少ない。これでは北朝鮮対策で日韓が真に一致協力することは不可能である。
第四に、このこととも関連するが、日本人、とりわけ原子力専門家は海外の日本核武装疑惑にもっと真面目に対応する必要がある。平和利用(原子力発電)だけにかまけずに、軍事利用問題(核戦略、核拡散)にももっと積極的に発言すべきだ。それが日本自身の安全保障にも繋がるだろう。
第五に、しかし、核不拡散条約(NPT)をいつまでも金科玉条として杓子定規に対応するだけでは駄目だ。核不拡散は手段であって、目的はあくまで国際安全保障だ。例えば、同じアウトサイダーでもインドと北朝鮮は全く違う。インドの核ミサイルが日本に飛んでくることはまずあり得ない。しかもインドは、パキスタンなどと違って核関係資材や技術の不正輸出は行なっておらず、原子力平和利用面で制裁を課す必要はもはや無いはずだ。最近米国の専門家からもインド重視論が出ている。日本は、将来の対中国外交上もインドとの関係を抜本的に改善すべきで、手始めに日印原子力関係をもっと前進させる必要がある。
(電気新聞・時評「ウェーブ」2003.12.25 掲載)