2003年8月 日 「世界週報」(時事通信社)第  号掲載

 
      「ハイ・ヌーン」と「シェーン」

                       金子 熊夫 (外交評論家)                                                                                                                                                                                                                                                                       

いささか旧聞に属するが、二年前小泉首相とブッシュ大統領がワシントンで最初に会談したとき、お互いに西部劇が大好きだということで意気投合し、小泉首相はブッシュ大統領を往年の名画「ハイヌーン」(日本名は「真昼の決闘」)に出てくる保安官に見立てて「ミスター・クーパー!」と呼びかけたとか。逆に、大統領が首相に「ハーイ・クーパー!」と呼びかけたとか。

確かにテキサス出身のブッシュ氏は、カウボーイ・ハットがよく似合い、その外交スタイルにもそれらしいところがある。先きのイラク戦争のときの采配にもそれがよく現れていた。

問題は、彼がクーパー保安官だとすると、小泉氏はさしずめ、グレース・ケリー演ずるところの新妻ということになるのだが、敬虔なクエーカー教徒で暴力を否定する彼女は、一度は彼を見捨てて馬車で立ち去るが途中で引き返し、最後の危機一髪の場面で、新郎を狙う悪漢を背後からライフル銃で射殺してしまう。有名なクライマックス・シーンだが、この辺りの彼と彼女の関係は、現在の日米同盟関係に置き換えてみるとなかなか意味深長である。いつまでも「集団的自衛権はあるが行使できない」などと言って尻込みしていると、新妻役も満足には務まるまい。

 ところで、西部劇のもう一つの名画に「シェーン」がある。舞台はワイオミング州のグランド・ティートン(インディアン語で「三つの峰」、現在は国立公園)で、約四〇年前の留学生時代に私もひと夏、その美しい山麓でテントを張って過ごした経験があるので、格別懐かしい所である。この映画も「ハイヌーン」に劣らず有名だからストーリーを改めて紹介するまでもないが、私がここで取上げたいのは、主役のアラン・ラッドではなく、敵役の方である。性格俳優ジャック・パランスが演ずるこの敵役は、いかにもニヒルで陰険な男で、しかも早撃ちの名手だ。

だが、いくらプロの殺し屋でも、正当な理由もなく相手を殺すことは出来ない。そこで彼は、どうしたらシェーンを直接対決に誘い出せるか策略を巡らす。そこへ、ある日、お誂え向きに、シェーンの仲間の若者が町の酒場にやってくる。どうみても田舎者で、拳銃の腕も大したことはないのだが、血の気が多いタイプで、「お前みたいな小僧は酒場に来る資格はない。家でジュースでも飲んでいろ。人並みに拳銃をぶら下げているがどうせ撃てやせんだろう。さっさと消え失せろ」などと面罵されて、つい頭に血がのぼり、思わず腰の拳銃に手をかける。

その瞬間、殺し屋は待ってましたとばかり、一瞬早く拳銃を抜いて、男をあっさり殺してしまう。計画的な挑発に乗せられて先に拳銃に手をやった方が負けだ。殺し屋の方は「正当防衛」と見なされるから、後で保安官が来ても縛り首にはならない。こうしたシーンは他の西部劇にもよく出てくるが、これも見方によっては中々暗示的である。

最近の具体例で言えば、一九九〇年八月の湾岸危機のサダム・フセインがそうだ。彼は直前に、イラク駐在の米国大使(女性)を呼んで、それとなく、「もしイラク軍がクエートとの国境保全のため部隊を集結したらどう思うか」と探りを入れると、大使は「それはイラクとクエートの問題だから米国政府はとくに関心がない」という趣旨のことを言ったらしい。大使が故意にフセインをミスリードし、侵攻を挑発したかどうかは必ずしも審らかでないが、結果的にフセインは米国の意図を読み違えて戦争に突入した。

同じように相手の意図を読み違え、挑発に乗せられて自滅した例は歴史上多い。一九四一年の日本もそれに近いだろう。真珠湾奇襲攻撃を仕掛けたのは日本だが、実はあれは、日本の暗号電報を解読していたルーズヴェルトが巧妙に仕組んだ罠だったのだという見方は、日米双方の歴史学者の中に少なくない。真相は未だに不明で、おそらく永遠の謎だろう。ただ、はっきりしているのは、日本が先に手を振り上げたということで、だからあの戦争は日本が仕掛けた侵略戦争であり、四年後の広島、長崎原爆投下も国際法上は正当化されるという米国の論理も成り立つのかもしれない。逆に日本としては、ハル・ノートがいかに厳しい内容だったにせよ、隠忍自重、もっと頭を冷やして、日米衝突回避の道を探るべきであったということだろう。

ところで、今春のイラク戦争について、開戦の最大の理由とされる大量破壊兵器(WMD)が未だに発見されていないことから、ブッシュ大統領やブレア首相の責任を追及する動きがある。私見では、真の開戦理由はイラクによる執拗な国連安保理決議違反であって、WMD自体の存否ではなかったはずだが、イラクも、もし本当にWMDを保有していなかったのなら、もっと早期に、もっと明瞭な形でそれを自ら証明すべきであった。それを、いかにもWMDを持っているかのごとく振舞って、米英の先制攻撃を許したのはフセイン一生の不覚であったと言えるのではないか。

米国のギャング映画などでよく見かけるように、警官が「武器を捨てて、手を頭上に上げろ」と言ったときに、何気なくポケットに手を入れる振りをすると、直ちに撃たれる。後になって、ポケットの中には何も入っていなかったことが判明しても、そのとき、そういういう疑いを持たれるような行動を取った方が悪いということになっている。これが銃社会のルールのようであり、当世国際社会も若干それに近いところがある。                                                                                          

国際紛争や外交も、所詮生身の人間がすることで、ちょっとした勘違いや誤解が重大な結果を齎すことがある。サダム・フセインの場合が果たしてそうだったかどうか、米国側が意図的にフセインを挑発して罠に嵌めようとしたのかどうか、知る由もないが、少なくともフセインは、面子や怨念に捕らわれずに、もっと冷静に状況を判断すべきであったということだろう。

国際政治や外交は本来極めて非情なものである。名画『シェーン』のあのシーンを見るたびにそんな感懐を催させられる。        

            (8月25日執筆)